Menu

インタビュー・コラム

岡野栄之理事長に聞く"アカデミアや企業が連携し、 産業が育つ街づくりを意識的に展開"

  • twitter
  • Facebook
  • LINE

_DSC3130.jpg

本インタビューは、岡野栄之理事長の経歴を振り返りながら、医学研究とその成果の実用化にかける思い、LINK-Jの構想、発足後1年半が経過した活動状況に対する評価、さらに今後の課題などについてお話をお伺いしました。

Musashiの発見で神経の発生過程を解明

――まず岡野先生が医学の道を志した理由やきっかけについて、教えてください。

私は慶應義塾大学付属の高校に通っていた頃から、物理学や数学といった分野に純粋に興味がありました。当時の慶應義塾大学には理学部がなかったので、このまま理学系に進むのであれば大学受験をしなければならないと思い、医学部説明会に参加してみたのです。
この説明会が、私の考え方を大きく変えてくれました。研究に興味はあったものの、研究といえば物理や数学しかないと思い込んでいたところ、医学部には基礎医学の研究者が多数存在していて、医学部に入っても研究ができることを初めて知りました。

丁度、物理学者シュレーディンガーによる著書『生命とは何か』が刊行された頃で、物理学のトップサイエンティストも、生命科学を対象に物理学的なアプローチをしていることがわかり、理論的な立場、あるいは物理学的な立場から医学を研究するのも面白いかもしれないと考えて慶應義塾大学医学部に進学しました。

――臨床には興味を持たれなかったのですか。

大学で医学を学んでみると臨床医学も面白いと感じましたが、やはり研究への思いが勝っていました。最初にがんの研究を志して、がん遺伝子に取り組む研究室に入りましたが、その頃、がん遺伝子の実態はまだよくわかっていなかったのです。研究室の教授から、「がん遺伝子を同定して単離する研究を頑張ってやりなさい。MITの分子生物学者ロバート・ワインバーグもやっているかもしれないから競争だよ」と発破をかけられ、それなりに懸命にやっていたものの、そもそも私たちには戦える術もなかった。医学部の卒業直前になってワインバーグのグループから膨大な数の論文が出て愕然としました。

がんを起こす遺伝子が1塩基、突然変異し、グリシンというアミノ酸がバリンに変わってしまう。これによって、がん遺伝子RasはGTP(Guanosine triphosphate:グアノシン三リン酸)を分解する活性がなくなり、絶えず細胞分裂を起こす異常を発生させる。要するに、がんのメカニズムを遺伝子の働きから理解する道を切り拓いた発見です。この論文を読んで私は、これでがんの実態がわかってしまったのではないか、このままがん遺伝子の研究を続けても仕方がないのではないかと途方に暮れました。

――そこで脳神経系の研究に転向されたのですか。

当時、分子生物学的や遺伝子工学を脳神経系に応用する研究はほとんどされておらず、これは狙い目かもしれないと思い、現在、私が所属している慶應義塾大学生理学教室に入って、神経系に分子生物学的手法が当てはめられないか研究を進めました。

神経の中でも、どうやって神経細胞が興奮するのかといった研究は京都大学のグループでされていましたが、神経がどのように発生して複雑な脳ができていくのか、そこに応用しようとする研究はまだなかったのです。神経において重要な働き方を果たす遺伝子とは何か、それが異常を起こすとどんな病気になるのか。こうした基礎的な研究を重ねる中で、元の細胞の神経幹細胞において、重要な役割を果たすMusashiという遺伝子を見い出すことができました。

――Musashiはメディアでも話題となった遺伝子ですね。

発現する細胞として遺伝子Musashiを使い、再生しないといわれていた大人の脳にも幹細胞があることを世界で初めて明らかにしたのが1998年です。実は、1997年にマウスにもMusashiがあることを発見しましたが、そのときはほとんど反響がなかったのです。ところが、ヒトで発見したときには、再生の可能性があると新聞やテレビでも大々的に報道され、大きな反響を呼びました。その一つが患者さんからもらった手紙ですが、そのとき「そうか、これは医療にも使えるかもしれない」と考えて、本格的に再生医療の研究を始めました。

脊髄損傷の研究を始めたのも同じ1998年で、当時、私は大阪大学にいましたが、いよいよ慶應義塾大学の中で整形外科グループが臨床研究を計画していると知り、2001年に慶應義塾大学に戻りました。そして、私たち生理学教室と整形外科学教室の合同で、幹細胞を使って脊髄損傷を治療する研究チームが同年に発足したのです。

情熱と行動力を持つ起業家との連携で実用化を加速

――岡野先生の基礎研究と臨床チームがタグを組んで再生医療を進めていく中で、なぜベンチャー企業の立ち上げにも関わるようになったのですか。

1998年頃から再生医療に関する研究の特許を海外でもいくつか出していたところ、その特許を元に、サンバイオという企業が再生医療の会社をつくりたいと申し出てくれたのです。忘れもしません、2001年9月11日朝、現代表取締役社長の森敬太氏と代表取締役会長の川西徹氏が私を訪ねてこられました。

私たちは再生医療を研究するにしても、自分たちの研究成果をどうしたら世の中に還元できるのか、全く見通しが立たなかったのです。今のように製薬企業が関心を持ってくれていれば協同できたと思いますが、当時の意識としては低分子化合物だけが薬だと思われていて、製薬企業は振り向いてくれませんでした。

一方で、私たちの技術を応用することを目指したベンチャーが立ち上がったことで、協力してやっていくことを決めました。これまで持っていた特許も彼らにライセンサーとして技術移転し、私はファウンダーサイエンティストとして名を連ねることにしたのです。

――基礎研究の実用化については、日本にも優れたシーズがあるといわれていますが、現実にはなかなか進んでいない面もあります。

そうですね。2002年頃から国も大学発ベンチャーを支援する方針をとり、様々なベンチャーが数多く誕生しましたが、今ではほとんど残っていません。その中で、サンバイオは生き残ることができて今の形になりました。

――では、実用化していく上で大切なことはなんでしょうか。

優れた発明とその基盤となる研究がしっかりしていること。さらに、どうすればそれを臨床に応用できるかという見通しを持つことです。そして、優秀な研究者と、実用化していくためのパッションと行動力を持ったアントレプレナーが連携することが重要です。

 科学者の役割は自分の研究をきちんとやること。さらに、どんな方向でやれば実用化できるかを考えることまでがその範囲ですが、それでお金を集めたり、会社をつくったりすることまでは正直やりたくない。私たちも、そこをしっかりやってくれるアントレプレナーと組めたことで効率的に進められました。彼らは、どうしたらファンドレイジングできるのか、どうすれば資金を集められるのかといった知識や経験を豊富に持っていたので、技術的な助言こそしましたが、起業や資金集めに関して私がアドバイスしたことは一度もありません。

――役割分担できてこそ、うまくサイクルが回りますね。

当時と現在を比較すると、今はAMED(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)といった機関ができ、サイエンスの現場での研究成果を実用化することはやりやすくなってきたと言えます。しかし、昔は大学の研究室を出た瞬間に、いわゆる死の谷(Valley of death:デスバレー)がありました。それは公的資金でサポートしてもらうことで、死の谷は遠くなったものの、依然として事業化できない状況はあります。そこはやはりベンチャーと協業したり、会社をつくったり、あるいは巨大な製薬企業と連携しなければ実用化はできません。私自身、実用化までの道筋は、10年、15年とやってきて、ようやくどう進めたら良いかがわかるようになりました。

――その後、慶應義塾大学発のベンチャーもつくられています。

サンバイオでは私自身の研究も、それ以外の研究でも良さそうなものは、ライセンサーとしてもらってくるよう指示を出します。例えば、東北大学大学院医学系研究科教授の出澤真里先生と組んでいる研究も、ライセンサーとしてもらったことがありますが、簡単に言うと、体性幹細胞を使った研究でiPSに取り組むには、まだサンバイオの体力がなかった。しかし、iPS細胞を使った再生医療と創薬研究は実用化を見通せる成果が出てきたので、これをきちんと実用化していくにはやはり会社が必要だと考え、2つ目のベンチャーとして、2016年1月ケイファーマを設立しました。

_DSC3159.jpg

若い研究者が集まれる環境づくりの整備を

――新旧が共存する日本橋を国際的なライフサイエンスビジネスの拠点と位置づけ、国内外や産官学の連携を促し、オープンイノベーションの創出を目的にLINK-Jは設立されました。岡野先生は最初にこの構想を聞かれたとき、どのように感じられましたか。

面白いところに目を付けたと思いました。LINK-Jの構想を聞いたのは、毎年一回、再生医療をテーマにサンフランシスコで開催されるワールド・アライアンス・フォーラムでのことです。そこにゴールドスポンサーとして参加されていた三井不動産常務執行役員の植田俊さんから「実はこんなことを考えている」と聞き、ユニークな発想だと思ったのが最初です。そのときはそれで終わりましたが、徐々に話が進んでLINK-Jが立ち上がっていき、日本でリアルエステート会社が再生医療に参入してくることは、非常に新しいパターンだと感じました。

アメリカでもボストン、ベイエリア、サンディエゴなど、産業が育つ街には、それぞれ特有の環境があります。大学だけでなく、その周辺に企業があり、意識的に街づくりを展開しなければ、新たな産業は生まれません。アカデミアや企業が連携して街づくりから始めることは、産業を育てていく上で重要なポイントです。

――LINK-J設立から1年半が経ちましたが、変化したと思われることはありますか。

存在感が増したと思います。昨年10月の再生医療のシンポジウム同様に、今年5月に開催したAI×Life Scienceシンポジウムも大きな注目を集めました。学術交流会をしっかりとサポートしていく、人と人のネットワーキングをつなぐ組織という認知度は高まったのではないでしょうか。昨年6月に行ったお披露目の記者会見では、三井不動産の経営に関する質問だけで、再生医療に関するものがなかったことを考えると、認知度も存在感も格段に高まったと思います。LINK-Jのような組織を自由度の高い発想で民間が手がけることはなかなかないので、今後も面白い存在になっていくと期待しています。

――LINK-Jの今後の課題は、ネットワークづくりだけでなく、ビジネスを始めた人たちの育成・支援の強化、海外との連携、情報発信のほか、日本橋にベンチャーオフィスの拠点を整備していくことだと考えていますが、岡野先生から見ていかがでしょうか。

若い人の留学を支援する様々な財団がありますが、LINK-Jにも留学を支援するフェローシップがあれば良いと思います。数はさほど多くなくてもいいので、そうしたサポートがいくつかあると、若い人たちの認知度も高まってきます。やはり若い研究者が集まってくる環境づくりは不可欠です。

もう一つ、製薬企業が就職相談を実施していますが、あれもとても良いですね。加えて、VC相談やアントレプレナー養成講座をLINK-Jの冠でやっていく。これは資金面というより、VCの人たちとどうすれば知り合えるのか、ネットワーキングの支援だけで良いと思います。

――かつて岡野先生の研究が、サンバイオの協力によって動き出したことと同じことが求められますか。

本来、大学のあり方としてはそれでは良くないのです。MITやスタンフォードなど、海外では大学発の企業が数多く生まれて成功し、それがひいては大学にとってのプロフィット、経営の安定化にも貢献します。また、それぞれの大学で取り組むサイクルは大事ですが、大学間の垣根を取り払い、もう少し"ごちゃ混ぜ"にしたネットワークをつくることは、街づくりの一環としてあっても良いと思います。

pagetop