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インタビュー・コラム

MIYAMAN's column vol.1 運命を決めた生物実習

運命を決めた生物実習

機材遅れで、1時間出発が遅れた神戸空港でこのコラムを書いています。

東京大学理学部植物学修士課程を修了、日本経済新聞社に入社して38年の歳月が過ぎ去りました。入社の目的はバイオテクノロジーの雑誌創刊にありました。幸い、1981年10月に日経バイオテクを創刊、85年に編集長に就任し、現在までに日経バイオテクonlineやコンセンサスエンジンなど、バイオと先端医療のメディア開発に邁進することができました。

これから執筆するコラムではこうした経験と取材を通じた多くの出会いから得られたビジョンを皆さんと共有したいと願っています。

何故、人生の3分の2もの時間をバイオテクノロジーの報道や研究開発に投入してきたのか?その理由は高校2年生の3学期の生物の実験にありました。当時の教育大付属駒場高校(現在は筑波大付属駒場高校)には、名物生物教師、貝沼先生が居られました。エネルギッシュな授業は、ただ暗記科目であった生物を一変するものでした。そして高校の理科準備室に超遠心機(スピンコ)が鎮座しており。高校生なのにファージによる大腸菌の形質導入実験を行うことになるのです。

雑菌の混入を避けるため実験は冬に行われました。

今でも鮮明に覚えていますが、とても寒い朝でした。駒場東大前の駅から学校に向かう足取りはいつのまにか小走りになり、白い息を吐き駆け込むように2階の生物実験室に突入しました。目的は部屋の壁際にある恒温器です。扉を開けると蒸せるような培地の匂いの向こうに、ガラスシャーレがあります。恐る恐るシャーレの蓋越しに見ると、そこには白いコロニーに混じって、なんと青い大腸菌のコロニーが輝いていたのです。

この瞬間に少年の運命は決まりました。生命を操作してしまった。1972年2月。遺伝子操作が発表される1年前の出来事です。この生物実習の衝撃は大きく、わが校からは続々とバイオ研究者が輩出しました。そして私の冒険もここから始まったのです。

miyata.png 宮田 満 氏
東京大学理学系大学院植物学修士課程修了後、1979年に日本経済新聞社入社。日経メディカル編集部を経て、日経バイオテク創刊に携わる。1985年に日経バイオテク編集長に就任し、2012年より現職。厚生労働省厚生科学審議会科学技術部会委員、日本医療研究開発機構(AMED)革新的バイオ医薬品創出基盤技術開発事業評価委員など、様々な公的活動に従事。

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