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インタビュー・コラム

MIYAMAN's column vol.2 クジャクシダと過ごした2年間

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クジャクシダと過ごした2年間

 高校で、バイオテクノロジーで世界を変えると決意した紅顔の美少年?は、次に大学で遺伝子操作を研究しているところを探し始めました。そして見つけたのが、東京大学植物学教室でした。この他、九州大学などで1970年代に当時の最新技術であった遺伝子操作がわずかに研究されているだけでした。

 もともと植物が好きだったので、というか血を見るのが嫌いだったので医学部は想定外であったし、当時は遺伝子操作など医学部ではまったく研究が進んでいませんでした。むしろ大腸菌とファージを使った、分子生物学が遺伝子操作を有力な解析技術として生命の謎を次々と解いているころでした。

 私の頭は「大腸菌の鞭毛の研究など美的ではない。美しい花の形を決める遺伝子を解明したい」という大望(妄想?)で一杯でした。大学院は発生生物学教室に入り、光を駆使して細胞の分裂面を制御することにしました。XYZ軸で細胞分裂面を制御できれば、花の形は理論的に決めることができると考えたのです。材料はクジャクシダの胞子でした。偏光した青い光を照射することで、発芽した胞子の糸状の根を自在に分裂でき、その光制御が細胞周期の制御に関連すると突き止めたのですが、ここで修士2年間は時間切れ。遺伝子クローニングを目指し、小石川植物園の温室一杯クジャクシダを栽培、やっと胞子を収穫したところ、当時の技術では20年間栽培してやっと、遺伝子をクローニングできる胞子量を確保できると知り、愕然としました。実際、オランダのグループが花の形の遺伝子を同定したのは、15年後でした。

 しかも、クジャクシダの細胞分裂周期は72時間でした。私はクジャクシダと寝起きを共にしていたので、72時間周期の生活にどっぷり嵌り、人間関係は希薄になるばかり。ある日、美しいシダの細胞を顕微鏡で観察しながら気が付きました。

 「どうやら植物より、人間の方が好きだ」

 そこから一転、新聞記者を目指すことになりました。1978年の夏でした。

miyata.png 宮田 満 氏
東京大学理学系大学院植物学修士課程修了後、1979年に日本経済新聞社入社。日経メディカル編集部を経て、日経バイオテク創刊に携わる。1985年に日経バイオテク編集長に就任し、2012年より現職。厚生労働省厚生科学審議会科学技術部会委員、日本医療研究開発機構(AMED)革新的バイオ医薬品創出基盤技術開発事業評価委員など、様々な公的活動に従事。

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