さて新聞記者になろうと思ったものの。当時の東京大学植物学教室にはなんと就職係というのがありません。勝手に就職係を名乗り、マスコミ各社に電話連絡、募集要項を取り寄せました。一番部数の多い新聞社と日本経済新聞の2社を受験、幸いなことに両社から採用の通知をいただきました。
決め手は、バイオテクノロジーのメディアを創りたいと主張したことだったと勝手に思っています。こんな変わった奴も面白い。インターネットによる市場蚕食以前だったので変人奇人を採用する余裕がありました。
当時は入社前の研修もなく、渡された百科事典ぐらいの厚い社史を読んで来いというのが、唯一の入社準備だったのです。しかし読んでみると、プロ野球と創業者のことしか書いて無かった。これはまずいと思い、日本経済新聞に駆け込んだのも幸運でした。新聞とは何かなど研修を1週間受け、私だけ雑誌部門の日経マグロウヒル社(現日経BP社)のお迎えの車で、研修所を離れました。同期はその後、新聞の拡販実習があり、相当なカルチャーショックを受けたようです。日経マグロウヒル社は米国の教科書やビジネスウィークなどを発行するマグロウヒル社と日本経済新聞社の合弁会社で、新聞より先進的な雰囲気でした。業界紙ではなく、わが国初の技術ジャーナリズムを切り開こうと全社が一丸となっていました。毎日、ワクワクしながら会社に向かいました。
ところで、その年は学部から大学院に進学した5人の内、なんと4人もが大学院を辞めました。よほどの事情が無い限り、修士から博士に全員進学していた植物学教室の先生方は一種のパニックとなり、創立120年で始まって以来の"修士最終試験"が、修士論文審査後に設定されました。一体なんだ?ドキドキしながら、10数人の先生が取り囲む会議室に入りました。そこで受けた質問はただ一つ。「何故、君らは辞めちゃうのか?」。
産学連携もまだタブー視されていた頃の大学の昔話です。
東京大学理学系大学院植物学修士課程修了後、1979年に日本経済新聞社入社。日経メディカル編集部を経て、日経バイオテク創刊に携わる。1985年に日経バイオテク編集長に就任し、2012年より現職。厚生労働省厚生科学審議会科学技術部会委員、日本医療研究開発機構(AMED)革新的バイオ医薬品創出基盤技術開発事業評価委員など、様々な公的活動に従事。