1979年4月の入社以来、日経メディカルという無代誌(当時の無料雑誌)に配属され、医学記事を執筆していました。ある日、社長に呼び出され「君、バイオテクノロジーのニューズレターをやってみないか?」と声を掛けられました。「やります」と間髪を入れず答えたのが、1981年10月に創刊した日経バイオテクの始まりでした。
医学記事を書きながら、遺伝子操作の入門や免疫系の図解企画を立て、勝手にバイオ研究者に取材にいっていたのです。私のファイル棚には、創刊のための見込み読者のリストや取材先などが満杯に詰まっていたのです。準備万端だったのです。
創刊時に私が挑戦したかったのは、広告収入依存体質からの脱却でした。当時の日経BP社は、米国マグロウヒル社から取得した購読料で雑誌の発行コストを賄い、広告料で収益を確保するというビジネスモデルで業績を上げていました。広告依存体質は自由な報道に影を差します。営業と編集が常に対立し、収益と自由な報道との危ういバランスを保っていたのです。
私はいっそのこと購読料のみで収益を確保し、すっきりと自由に報道できるニューズレターを発行したかったのです。社長の誘いはまさにぴったり。全速力で創刊準備を整えたことは言うまでもありません。当時は余りの楽しさに、出勤の行き帰りはスキップしていたのではないかと言われるほどでした。但し、そのために読者(主にバイオ企業)には負担を掛けることになりました。創刊時はわずか16ページの小雑誌を年間24回発行して、8万円以上の価格を強いることになってしまったからです。申し訳なくて、せめてのお返しに、アジアの某国の紙幣と同じ紙で印刷したものです。ありきたりの情報では、この価格で誰も買って くれません。スタッフ一丸となって、新聞やT Vが報道しないスクープを血眼になって探しました。どんなに良いネタでも他のメディアで報道されたら、泣く泣く記事を落としました。この努力は、創刊から37年も日経バイオテクが続いている土台を作ったと思います。
東京大学理学系大学院植物学修士課程修了後、1979年に日本経済新聞社入社。日経メディカル編集部を経て、日経バイオテク創刊に携わる。1985年に日経バイオテク編集長に就任し、2012年より現職。厚生労働省厚生科学審議会科学技術部会委員、日本医療研究開発機構(AMED)革新的バイオ医薬品創出基盤技術開発事業評価委員など、様々な公的活動に従事。