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インタビュー・コラム

MIYAMAN's column vol.6 バイオ産業の熱気の中で

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バイオ産業の熱気の中で

 1981年10月に日経バイオテクを創刊しました。

 丁度その一年前の1980年10月14日、米国Genentech社が 米国の新興株式市場NASDAQに上場しました。一株35ドルで上場した株価は見る見るうちに上場、最高では88ドルまで値が 上がり、その日は71.25ドルで引けました。まさに大成功、米国株式市場はバイオテクノロジーを熱狂的に歓迎したのです。 その日は1ドル206円もしていました。100万株の新株を売り出したGenentech社は100億円以上の資金調達に一日で成功 したのです。この成功が日米欧でバイオテクノロジー・ブームに一気に火を点けました。

 一夜にして「20世紀はバイオの世紀」になったのです。 我が国でも、100数十社がバイオテクノロジーの研究開発に参入しました。住友化学など化学企業から、日立製作所、トヨタ自動車、新日鉄、商社、食品企業など、ほとんどの上場企業がバイオ研究に手を染める過熱状態でした。

 何故、そんなに殺到したのか?その理由は当時の我が国には、バイオテクノロジーの産業化に不可欠な二つの基幹技術があったためです。 

 第一はDNAの化学合成技術でした。今まで新薬開発に手を染めていなかったサントリーや湧永製薬などがDNA合成技術を駆使して、欧米のベンチャー企業群と競争を始めました。 我が国では北海道大学や大阪大学にDNA合成の研究拠点があり、その出身者が、Genentech社でインスリンの遺伝子 (DNA)の全合成に成功したのです。その結果、同社は1982年に世界で初めて糖尿病薬の組み換えヒト・インスリンを商業化することに成功しました。豚の膵臓から抽出してきたインスリンは、今やステンレスタンクの中で合成遺伝子を組み込んだ大腸菌で工業生産されています。

 第二の基幹技術は発酵技術でした。アミノ酸の生産で協和発酵(現在、協和発酵キリン)や味の素、田辺製薬(田辺三菱製薬)などが培った代謝制御発酵技術や酵素工学技術が、そのままバイオテクノロジーの産業基盤を形成しました。日本の技術が無ければ、Genentech社の成功はなく、今のバイオ産業の興隆もなかったと思います。

 そんな熱い雰囲気の中で、日経バイオテクは産声を上げたのです。

miyata.png 宮田 満 氏
東京大学理学系大学院植物学修士課程修了後、1979年に日本経済新聞社入社。日経メディカル編集部を経て、日経バイオテク創刊に携わる。1985年に日経バイオテク編集長に就任し、2012年より現職。厚生労働省厚生科学審議会科学技術部会委員、日本医療研究開発機構(AMED)革新的バイオ医薬品創出基盤技術開発事業評価委員など、様々な公的活動に従事。

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