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インタビュー・コラム

心臓外科医の究極の課題「重症心不全」治療に挑む 医療の展望を澤芳樹氏(LINK-J副理事長)に聞く(前編)

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ライフサイエンス研究のオピニオン・リーダーに話を聞く「スペシャルインタビュー」。第2回目となる今回は、重症心不全に対する再生医療の臨床応用に取り組むかたわら、日本再生医療学会の理事長として「再生医療の普遍化」にも挑戦している、LINK-J副理事長の澤 芳樹氏(大阪大学大学院医学系研究科 外科学講座 心臓血管外科教授)にお話をうかがいました。前編となる今回は、澤氏が医師の道を目指したきっかけ、大阪大学医学部での学生生活、ドイツ留学を通じて得た経験、帰国後に挑戦した重症心不全治療の概要などについてご紹介します。

――なぜ医師の道を選ぼうと考えたのですか?

もともと我が家の家系には、医師がたくさんいました。祖父も医師でしたし、小さい頃からあこがれだった従兄も医師でした。そんな環境だけに、周囲の期待は大きかったようです。私自身は、身体の弱い子どもでした。ぜんそくと食物アレルギーがあり、何度か危ない目にもあいました。両親はそんな私が心配で、幼い頃は田舎で転地療養した経験もあります。父親は片道2時間かけて大阪まで通勤していたそうです。

中学生になると、バスケットボールに夢中になりました。そこは練習がとても厳しくて、元旦と終戦記念日を除く363日が全て練習日。しかもキャプテンにも就任していたので、その責任は重大でした。大変な日々でしたが、リーダーシップなどを学ぶ機会にもなりました。

高校生の時に、あこがれだった従兄が27歳の時に事故で急死しました。彼は私より10歳ほど年上で、小さい頃からよくかわいがってもらっていました。そんな大切な人が、突然この世からいなくなってしまう。医師だった私の祖父も、従兄と同じ27歳の時に亡くなったと聞いていました。人間とはこんなにも簡単に死んでしまうものなのか――。この時から「医学の勉強をしよう!」と思うようになりました。

――大学生の頃は、どのような学生生活を送っていたのですか?

高校生の頃は必死で勉強したのですが、大学生になると再びスポーツに明け暮れるようになりました。室内競技は中学時代にイヤというほど経験したので、大学ではスキーとテニスに夢中になりました。特にスキーについては、将来はペンションを経営しながらスキー三昧の生活を送ろうかと本気で考えたほどです。しかし6回生の夏に「医学部に入学してこれではダメだ」と思い直し、必死に勉強をしました。

当時の勉強時間は1日12時間以上。睡眠と食事以外は、ほとんど国家試験対策に費やしていました。体力には自信があったので、卒業後は「体力で勝負できる医局」に進もうと考えていました。そこで選択したのが、「大阪大学医学部第一外科」でした。当時は小児医療に関心があったので、入局後は小児外科も考えていたのですが、教授の勧めもあって心臓外科(当初は小児心臓外科)に進むことになりました。

――第一外科に入局した後は、どのような活動をしていたのですか?

入局後は心臓外科医として、第一外科で経験を重ねました。2006年に心臓血管・呼吸器外科(第1外科)の教授に就任すると、当科の方針として「これからの10年間で<低侵襲の手術>と<重症心不全の治療>を極める」という目標を掲げました。そのうち、<低侵襲の手術>については、TAVI(経カテーテル的大動脈弁置換術)を日本で初めて臨床導入するなど、順調に進展しました。

一方で、<重症心不全の治療>については、補助人工心臓や心臓移植がありましたが、それだけで全ての命を救うことはできませんでした。また多くの心不全患者は、心機能が極めて悪化した状態で治療を受けていました。そこで、「心臓を取り換える治療」だけでなく、「今ある心臓の機能を活かす治療」も必要ではないかと考え、研究を始めました。この研究については、教授に就任する前から始めていました。

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――医局員時代にはドイツの研究所にも留学されています。当時について教えて下さい。

1989年から1991年まで、西ドイツのバート・ナウハイム市にあったマックス・プランク研究所の心臓外科/心臓生理学部門に留学していました。目的は、白血球に関する基礎研究。ちょうど「東西ドイツの統合」という大イベントが起きた頃でした。もっとも、私はドイツ語の新聞が読めないし、現代のようなネット社会でもないから、事情が全くわからない。家族からの国際電話で、初めて知ったくらいでした。

実際にドイツで生活をすると、日本と全く異なる環境に驚きました。たとえば、教授と学生は友人のように付き合い、外科医は朝早く出勤すると、午後までに自分の担当の手術をすませて、あとは近所のレストランで残り半日を過ごしている。朝から晩まで働き詰めの日本の医局員と比べて、ドイツの医療体制には余裕があって、皆が自分の力を最大限に発揮している。当時の日本は、ちょうどバブル経済の絶頂期。そんな日本と比べると、ドイツ人の生活はシンプルだけど、でも豊かでした。「日本はよほど遅れているぞ」と痛感したのをおぼえています。

――ドイツ留学から帰国した後の研究について教えて下さい。

私がマックス・プランク研究所(ドイツ)に留学していた頃、同研究所では遺伝子や増殖因子を用いた研究が行われていました。私の研究テーマではなかったので、実際に技術を学ぶ機会はなかったのですが、留学期間が終わるとその考え方をもって日本に帰国しました。

帰国後は重症心不全の遺伝子治療の研究を始めました。細胞増殖因子のプラスミドを心臓に導入する方法を確立し、臨床試験も目指したのですが、諸事情から試験は中止。筋芽細胞を心臓に注入する方法にも挑戦しましたが、細胞が生着せず、成果は上がりませんでした。当時は(私の研究ではありませんが)有名誌に掲載された論文に捏造疑惑があがるなど、再生医療研究を取り巻く環境は厳しさを増していました。

研究が行き詰まりかけていた頃、細胞シートの研究開発に取り組んでいた岡野光夫氏(当時:東京女子医科大学教授)の発表を聞く機会を得ました。そして講演を聞き、この技術を応用して「筋芽細胞シート」ができれば、細胞注入よりも安全性の高い心不全治療ができると直感しました。私たちは岡野氏の研究を補完する技術を持っていたことから、その場で岡野氏に共同研究を提案し、岡野氏も承諾してくれました。

といっても、すぐにヒト臨床試験を開始したわけではありません。まずは岡野氏と5年間にわたって動物実験を重ね、有効性と安全を確認しました。その後、2007年に私が心臓血管外科(第1外科を再編)主任教授に就任すると、さっそくヒトでの検討を開始しました。(続)

後編へ続く>>>>

後編では、筋芽細胞シートの開発秘話などを中心に、「クオリプス株式会社」設立の経緯、医学部のあり方などについてお話しいただきます。

sawayoshiki.png澤 芳樹 氏
大阪大学医学部を卒業後、医学部第一外科に入局。1989年にフンボルト財団奨学生としてマックス・プランク研究所(ドイツ)に留学。帰国後は大阪大学医学部にて講師、助教授を経て、心臓血管外科主任教授(現役)に就任。内閣官房医療イノベーション推進室では次長を務めた。再生医療および産学連携などに造詣が深く、日本再生医療学会(理事長)、ジャパンバイオデザイン協会(理事)なども務める。専門領域は重症心不全、弁膜症、先天性心疾患など。

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