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インタビュー・コラム

第6回 災害下で組織力を発揮した「くすりの街」

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「くすりの街」日本橋には、昔から 現代に通じる先進的な ビジネスマインドが息づいていた

「くすりの街」日本橋には、100年以上も前から、コンプライアンス重視、情報共有・情報開示、組織力の発揮、社会への貢献、シェアの精神など、現代に通じる先進的なビジネスマインドが存在していました。そんなエピソードをシリーズでお届けします。

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2011年に起こった東日本大震災では、震災直後、物資を被災地に届けることが急務となりました。医薬品についても、メーカーや卸業者などが奔走して、現地へと薬を届けました。

それ以上に深刻な医薬品不足におちいったと考えられるのが、大正12年(1923年)の関東大震災。なぜなら、関東一円の医薬品供給を担う「くすりの街」日本橋本町の薬品市場が、街ごとほぼ焼失してしまったからです。

しかし「くすりの街」日本橋本町は、窮地をものともせず一致団結して市場を早期に回復させ、被災地の医療に貢献しました。そこでは組織のガバナンス力が発揮されたのです。

9割以上が焼失した日本橋

大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、関東地方でマグニチュード8前後の大地震が起こり、東京・横浜などで大火災が発生しました。死者・行方不明者は10万人を超えたといわれています。

震災による火災は揺れの直後から始まり、9月3日午前まで続きました。東京市内ではおよそ134カ所から出火し、東京市の43.5%という広大な地域が焼かれたという記録があります。

ここまで火災が広がったのには、理由があります。震災発生が昼食どきの時間帯だったことに加え、強風が吹いていて倒壊した家屋に火が燃え移りやすかったこと、水道の破損により十分な消火活動ができなかったことなど、いくつもの不運な状況が重なったのです。

中でも日本橋区の焼失世帯の割合は東京市内で最も高く、93.2%でした。これは、日本橋が燃えやすい性質の薬品を取り扱う薬種問屋街だったことが影響していると考えられています。

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日本橋の震害「大正震災誌写真帳」より


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日本橋人形町通の焼跡:「大正震災誌写真帳」より

「本町薬品街で地震と同時に二カ所から出火し、当日夕方6時ごろには大部分の店が焼けた。倉庫も小売薬局も焼けたので、本町から薬品類はほとんどなくなった。土蔵は骨組みが木なので焼け落ちてしまった」。このように当時を振り返る証言が残されています。

ただ不幸中の幸いだったのは、本町では一軒のレンガ倉庫が類焼を免れたほか、機転を利かせて大八車で薬品を持ち出した問屋もあったことです。また、下谷にあった「内務省東京衛生試験所」は類焼を免れ、試験用に持ち込まれていた薬品などが相当量ありました。当面の医薬品供給には、これらが大変役立ったそうです。

薬品市場の早期復興に向け、立ち上がる

災害時こそ真っ先に求められるのが薬です。そこで日本橋を中心とした薬業の組合「東京薬種貿易商同業組合」は、薬品市場の早期復興に向け対策に乗り出しました。組合員の実に9割が罹災する中、罹災者を含めたすべての組合員による会合を9月18日には開き、対策を協議。さらに協議に先立って、大阪市場から救急薬品を供給する支援策についても、内務省厚生局長から許可を取り付けていました。

会合では「復興委員」が選任され、組合内に「臨時薬品供給所」が設置されました。薬品の購入は組合の共同売買とする、組合員は連帯責任をもつ、といった取り決めもなされました。緊急時だからこそ必要なルールと流通のしくみを即座につくったのです。

この初動の早さ、ならびに初動の時点で組合員全員のコンセンサスを得たことは、対策を奏効させる重要なポイントだったと考えられます。

健全な流通を保った、組織のガバナンス力

購買担当委員は、交通網が寸断する中を3日がかりで大阪まで出向き、大阪薬種卸仲買商組合代表者と折衝。救急薬品の購買にあたって大部分を"入札方式"で購入できるよう契約し、相当量を急送してもらいました。

物資が不足すれば需給バランスは崩れますから、売り手に言い値を要求されてもおかしくありません。実際に世の中の物価は4~5倍に跳ね上がり、狂乱物価となっていました。しかし薬品については、東京薬種貿易商同業組合の申し入れと、それに対する大阪の問屋組合の利害を超えた協力のおかげで、正当な入札方式による価格が保たれたのです。

組合が一括購入した薬品は、臨時薬品供給所を経て各組合員が分売しました。このときも事前のルールにより、申し込みの多い薬剤は割当制にすることや、供給所の決定した薬価に従うことが決めていましたから、無用な混乱は避けられました。

組織のガバナンスを利かせた、統制のとれた流通の仕組みをつくったことで、薬品市場は緊急時の混乱を乗り越えることができました。その陰には、自身の家屋・商品などの資産を失いながらも、市場の早期復旧のために不眠不休の努力を続けた組合員たちの姿がありました。

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関東大震災という混乱の中でも、目先の利益に溺れることはなかった「くすりの街」日本橋本町。薬を必要な人に届ける、という自分たちに与えられた役割を全うしたのです。

続く>> 第7回 日本橋で育まれていたシェアの精神

参考文献
東京薬事協会百年史編纂委員会 編纂『公益社団法人 東京薬事協会 百年史』(1987年 東京薬事協会)
東京薬事協会百十年史編纂委員会 編纂『公益社団法人 東京薬事協会 百十年史』(1994年 東京薬事協会)
東京薬事協会薬事協120年史編纂委員会 編纂『公益社団法人 東京薬事協会 120年史』(2004年 東京薬事協会)

公益社団法人 東京薬事協会
1884年(明治17年)に東京薬種問屋組合として創設された薬業団体。
「薬業の向上発展に関する調査・研究」「地域社会に対する薬事事業」を主事業に、業種・業態・規模を越えた会員によって、都民に対する正しい薬の知識を啓発している。

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