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インタビュー・コラム

第9回 ライフサイエンス領域の産官学連携の要「LINK-J」誕生

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「くすりの街」の伝統を受け継ぎながら、「ライフサイエンスの拠点」として新たなスタートを切った日本橋本町。"場"をつくったあとに、どのような進展があったのでしょうか。第9回は、ライフサイエンス領域の産官学連携の要であり、日本橋の産業活性化のサポーターでもある「LINK-J」の誕生秘話を中心に紹介します。

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ライフサイエンス領域の人々に、リアルな交流の機会を提供するプレイヤー

日本橋再生計画がスタートした当初から、大学の関係者や三井不動産が中心となり、「産業創造」の進め方について検討が重ねられていました。そこで挙がったのは、「大学のシーズをどう社会に出していくか?」「企業側からシーズへアプローチしやすくするには」という課題でした。とくに、ライフサイエンス産業は、研究成果の実用化の成功確率が低い分野でもあったからです。

日本橋ライフサイエンスハブ、日本橋ライフサイエンスビルディングといった拠点では、医療分野の研究開発や産学連携などを推進する団体、大学などのアカデミア、医療機器やヘルスケアベンチャーなど「産・官・学」のテナントが集まってきていました。しかし、問題はその先をどうするか、ということです。ライフサイエンス領域の人たちが、互いに垣根を越えて人的・技術的に交流する「オープンイノベーション」を実現するには、それらの人や企業・団体をつなぐことが必要でした。

ライフサイエンス領域の人たちを結びつけ、リアルに交流ができる「機会」を提供するプレイヤーがいなくては――。

そこで、大学のすぐれたシーズを世の中に出すとともに、企業側からもシーズへのアプローチをしやすくしようと、一般社団法人を立ち上げることになりました。理事長には、自らも再生医療分野の研究成果の実用化に積極的に取り組み、「ライフサイエンス構想」の初期からアドバイスを頂いていた慶應義塾大学医学部長(当時)の岡野栄之先生が就任しました。

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この岡野先生が理事長職に就いたのも、不思議な巡り合わせでした。あとでわかったことですが、岡野先生のお父様は三井不動産の元社員。若くして亡くなられたものの、その後も岡野先生はお父様の上司と親しくお付き合いされていました。上司は後年、事故による脊髄損傷のため、歩けなくなって、車いすの生活をしていましたが、岡野先生が医学部に進学することを聞いて「私のように歩けなくなった患者さんを、もう一度歩けるように治してほしい」と話したそうです。岡野先生は、中枢神経系の発生や再生の研究に取り組み、結果としてお父様の上司の思いに応えるような道に進んだのでした。こうした縁もあって、理事長職をこころよく引き受けていただくことになったのです。

人と人との縁は新たな可能性を生み出します。ライフサイエンス領域でも、産官学の新しい縁が化学反応を起こし、イノベーションが興るに違いない――。その結節点となるべく、2016年3月、一般社団法人「ライフサイエンス・イノベーション・ネットワーク・ジャパン」(LINK-J)が創設されました。

そもそも、日本橋の街の再開発にあたっては、ビルをつくってテナントを集めるだけでなく、地域をどう活性化するかというエリアマネジメントの考え方があり、これに基づいて、一般社団法人「日本橋室町エリアマネジメント」がつくられていました。「場」(ハード)だけでなく、「機会」(ソフト)も提供してこその産業創造という考え方のもとで創設されたLINK-Jは、こうした先例にならったものでもありました。

古きよきものと、新しいものとが共存するのが"日本橋らしさ"

次々と新しい試みがなされていく日本橋。それを受け入れることに地元の人々の抵抗はなかったのでしょうか? 日本橋の再開発にたずさわってきた、三井不動産株式会社の新原昇平さんは、「日本橋といえば、伝統を受け継いだ歴史ある街というイメージが強いでしょう。でも、マインドとしては決して保守的ではない。実際、ライフサイエンスという方向で走りはじめてからは、ベンチャー企業なども加わって、新たな産業が創造されていますし、『日本橋ライフサイエンスハブ』のイベント会場では、今、年間400回ものイベントが開催されています。新しいものもどんどん取り入れるのが日本橋らしさだと感じています」と語ります。

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それを象徴するのが、日本橋のある老舗の話です。日本橋の地で、江戸時代から店舗を構えるお菓子の老舗「榮太樓總本鋪」には、"のれん"とはただ守るものではなく、磨き育てるものだ、という先人の教えがあるそうです。その言葉の通り、歴史と伝統が脈々と受け継がれるなかで、新しいものも受け入れ、共存するのが"日本橋らしさ"なのでしょう。だからこそ、こうした街の再生が可能だったともいえます。

ハードとソフトの両面から「産業創造」を推進する日本橋の街は、「第2の『渋谷ビットバレー』、いわゆるライフサイエンスの集積地になりうるのではないか、と感じています」と新原さん。2016年3月にLINK-Jが誕生して以来、日本橋はライフサイエンスの"知"を結集したイノベーション都市へと大きく舵を切り、多様なアイデアと多様な人々が交わり育つ場所へと育ちつつあります。

続く >>第10回 くすりの街に建つ「日本橋ライフサイエンスビルディング」の歴史

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