江戸の商いの中心地としてにぎわい、今も多くの老舗がひしめく日本橋本町。そんな日本橋本町、実は「くすりの街」でもあることを知っていますか?そう言われてみると確かに、大手製薬企業の本社や外資系の製薬企業などがたくさんあります。ではなぜ、このような「くすりの街」になったのでしょう?
その歴史は、約400年前のできごとから始まります。それは、徳川家康が江戸にやって来た天正18年(1590年)のこと。家康は8月に江戸に入るや、さっそく大規模な土木工事に取り組みます。9月には市街地を造成する「町割」を始めますが、このとき最初に町割が行われたのが、今の日本橋本町でした。つまり、日本橋本町は江戸で最初に開かれた町だったのです。
その後、家康が慶長8年(1603年)に幕府を開き、江戸の町がどんどん形作られるにつれ、全国の商工業者が江戸へと集まりはじめました。その中には薬に関する商いを行っていた薬種商もいました。家康は日本橋周辺を町の中心部と定め、商工業者には業種別に集まって住むようお触れを出しましたが、薬種商は日本橋本町三丁目付近に住むこととされました。こうして日本橋本町は、関東の薬品取引の中心地となっていきました。
それは目薬から始まった
日本橋本町における薬種商の元祖と伝えられるのが、益田友嘉です。もともと小田原の北条家に仕えた目医者の流れをくみ、北条家が滅んだあと江戸に出て日本橋本町四丁目に住んでいたのですが、その商いの始まりにも、江戸の街づくりが深く関わっていました。
慶長8年から家康が進めた江戸の土木工事の中でも、特に大がかりなプロジェクトだった「豊島州崎の埋め立て」という大工事がありました。人夫は全国から集められ、たくさんの人が工事に関わりました。しかし、あまりに過酷な労働が原因で栄養失調となり、それがもとで眼病を患う人も続出してしまいます。そこで益田友嘉は、眼病に効くという薬「益田五霊膏」を作って販売。たちまち大評判となったのです。この薬は、文政7年(1824年)の『江戸買物独案内』にも広告が掲載されており、明暦3年(1657年)や元禄3年(1690年)の本にも処方が紹介されていることから、人気のある薬だったことがわかりますね。
寛文から元禄期(1661年~1703)になると、「問屋」や「小売」など、現代のようなビジネスモデルが登場します。日本橋本町の薬種の商いの中心は、薬のもととなる原料や調剤薬を取り扱う「薬種問屋」が担うこととなっていきます。
薬をめぐる変化に組織で対応
やがて、問屋は「組合」にあたる組織を作り、幕府の政策に協力することで力を持つようになります。日本橋本町の薬種問屋組合が関わった重要なできごととしては、享保7年(1822年)の「和薬改会所(わやくあらためかいしょ)」があります。「和薬」とは国産の薬のことで、中国産などに比べて安く、庶民も利用できるとして、8代将軍・吉宗が普及に力を入れていました。しかし偽薬も出回るようになり、幕府は検査所として「和薬改会所」の設置を決めます。江戸でその運営を任されたのが、日本橋本町の薬種問屋組合でした。このとき、地方からの荷物を直接受けとる特権を与えられたことで、日本橋本町の薬種問屋は江戸の薬品市場を独占するようになっていきました。
明治に入ると、西洋の薬「洋薬」や医薬分業制の導入など、薬を取りまく環境は大きく変わっていきます。しかしここでも、日本橋本町の薬種問屋は結束して「東京薬種問屋睦商」を組織し、変化に対応していきました。明治13年には薬品を量る規定を全国に先駆けて改定したり、このころ多く設立された慈善病院に漢薬を寄贈するなどの活動に取り組みました。これらの薬種問屋の中から、現在の製薬企業が生まれていったのです。
このように、くすりの街・日本橋本町の変遷は、江戸時代から近代にかけての日本の薬の変遷そのものでもあります。日本橋本町をそぞろ歩けば、今も残る薬の老舗企業の姿を目にすることができるでしょう。あなたもこの街で、脈々と続く日本の薬の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。
続く >> 第2回 日本橋本町はなぜ「くすりの街」になったのか~ 薬祖神社はくすりの街のシンボル~
参考文献
東京薬事協会百年史編纂委員会 編纂『公益社団法人 東京薬事協会 百年史』(1987年 東京薬事協会)
東京薬事協会百十年史編纂委員会 編纂『公益社団法人 東京薬事協会 百十年史』(1994年 東京薬事協会)
東京薬事協会薬事協120年史編纂委員会 編纂『公益社団法人 東京薬事協会 120年史』(2004年 東京薬事協会)
公益社団法人 東京薬事協会
1884年(明治17年)に東京薬種問屋組合として創設された薬業団体。
「薬業の向上発展に関する調査・研究」「地域社会に対する薬事事業」を主事業に、業種・業態・規模を越えた会員によって、
都民に対する正しい薬の知識を啓発している。