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インタビュー・コラム

【News Letter】なぜ米国は「ヒトゲノム計画」で成功を収めることができたのか 同計画を通じて見えてきた「基礎研究から知財を生み出す方法論」

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この投稿記事は、LINK-J特別会員様向けに発行しているニュースレターvol.11のインタビュー記事を掲載しております。
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約30億塩基対にも上るヒトゲノムの完全解析を目指した国際的プロジェクト「ヒトゲノム計画」が発表されたのは、今から約30年前の1990年のことでした。30億ドルもの巨額の予算を投じて実施された同プロジェクトは、ヒトゲノムに関する様々な知見を生み出し、また同時にプロジェクトを通じて誕生した各種技術とその知的財産は、米国に莫大な利益をもたらしたと言われています。なぜ米国は「ヒトゲノム計画」を通じて大成功を収めることができたのか。今回のインタビューでは、弁理士の辻丸光一郎氏(辻丸国際特許事務所・LINK-Jサポーター)と基礎研究者の村川泰裕氏(国立研究開発法人理化学研究所生命医科学研究センター)のお二人に、ヒトゲノム計画から振り返る「基礎研究のあり方」についてお話を聞きました。

全塩基配列の解析に挑戦したヒトゲノム計画を振り返る

―― 本日は「ヒトゲノム計画と遺伝子特許の変遷から見たライフサイエンスの革新的戦略」をテーマにお話をお聞きしていきたいと思います。まずはヒトゲノム計画についてご教示下さい。

辻丸 ヒトゲノム計画は、約30億塩基対に上るヒトゲノムの全解析に挑戦した巨大プロジェクトです。当時の米国はIT産業とバイオ産業を成長の基軸として重視しており、そのバイオ産業育成の基盤となったのがヒトゲノム計画でした。計画の実現にあたっては、DNAの二重螺旋構造の発見者であるジェームズ・ワトソン博士の積極的な働きかけがあったと聞いています。計画には米国以外にも日・英・仏・独・中の5カ国が参加しました。

―― 計画が発表された当時の反応とお二人が感じた印象について教えて下さい。

辻丸 驚きをもって受け止められた反面、たとえば生物系の研究者からは「遺伝子の機能も解明できていないのにA/T/G/C(アデニン/チミン/グアニン/シトシン)の羅列を読むことに何の意義があるのか」との批判もありました。もっとも、そうした懐疑的な意見も、計画の進展と共に次第に減少していきました。

村川 ヒトゲノム計画が進んでいる頃、私はまだ高校生でした。もともと少年時代は昆虫が好きで、昔から生命に対して強い関心を持っていました。新聞などで計画の概要を読み「いよいよヒトをテーマにした研究が始まるのか」と、高校生なりに時代の変化を感じてわくわくしました。大学は医学部に進学したのですが、研究者として初めてラボで実験をしたのは医学部2回生の時で、ヒトゲノム計画の完了宣言が発表された年でした。

辻丸 私は当時、民間企業の基礎研究部門で研究員をしていました。ヒトゲノム計画の話を聞いた時は「何とかしてこの計画に関与してみたい!」と思いましたが、最先端かつ国家規模のプロジェクトに、会社勤めの研究者が簡単に参加できる筈がありませんでした。そこで研究者ではなく、知財の方向から関与できないかと考えました。知財の専門家「弁理士」の道を選択したのはそれがきっかけです。

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辻丸 光一郎 氏(辻丸国際特許事務所)

蛋白質をコードする遺伝子の同定に日本はゲノム解析に大きく貢献

―― ヒトゲノム計画には日本も参画しています。しかし日本の貢献度については、いまひとつ評価されていません。

村川 たしかにゲノム配列解析に対する貢献度を見ると、日本はわずか6%に過ぎません。全体の約6割の解析に貢献した米国と比べると、見劣りする数字なのは事実です。しかし一方で、日本はゲノム解析の補完技術で多大な貢献をしています。つまり、ヒトゲノム計画では約30億塩基対という膨大なヒトゲノムの塩基配列を決定しましたが、蛋白質をコードしている遺伝子と呼ばれる重要な領域(ヒトゲノム全体の約1%にしかすぎません)はどこか詳細は不明でした。これには、完全長cDNAライブラリの構築を目指した林崎良英先生をはじめとする理化学研究所のチームが大きく貢献したのです。

辻丸 いうなれば「ヒトゲノム計画の結果に魂を吹き込んだのは日本の研究であった」というわけです。日本ではこの部分が正しく評価されておらず、その点は非常に残念です。

村川 そうですね。逆に「米国の凄み」を感じたのは、ヒトゲノム計画にて読まれた膨大な量の塩基配列を処理するために、情報処理技術がいち早く導入され、様々な解析アルゴリズムが生み出されたことです。その結果、大量の塩基配列の断片を連結する「ゲノムアセンブリ」が実現しました。これは後の「バイオインフォマティクス(生命情報科学)」という新たな学問領域の土台になっています。

辻丸 さらに米国は、ヒトゲノム計画から生まれた遺伝子特許から莫大な利益を得ていますからね。日米欧による協議の結果、塩基配列の断片には特許は認められないことになりましたが、ツールなどは別です。たとえば、PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)は、検査に必要な増幅技術で、米国は相当の特許料収入を得ました。ヒトゲノム計画は、知財戦略でも大成功を収めたといえます。ただし、米国で、少し前に、最高裁判決で、遺伝子特許の見直しが行われたのが印象的です。

基礎研究こそビジネスチャンス大切なのは「切り拓く人材」

―― なぜ米国はヒトゲノム計画を通じた知財戦略で大成功を収めることができ、日本はできなかったのでしょうか。

辻丸 シンプルにいえば「米国はルールを作る側に立ち、日本はルールを守る側に立った」差です。かつて米国の知財戦略は、知財を制限して自由な競争と発展を促進する「アンチパテント路線」でした。しかし1980年代の日米貿易摩擦を経て、先端技術の保護の重要性を認識した米国は、知財を積極的に保護する「プロパテント路線」に変更します。そして国際会議の場で新たな条約を提案すると、知財の世界ルールをも変えてしまったというわけです。

村川 米国は、必要となればルールさえ変えていきますからね。これはとても重要なことだと思います。

―― ルール上有利でも技術がないと成功しないと思うのですが、米国が技術開発で有利に立てた理由、日本における課題は何でしょうか。

辻丸 もともと米国は「バイドール法(公的資金による研究でも大学や研究者に特許権の行使を認める法律)」制定以降、基礎研究の産官学の連携―時には「軍」も加えて―に積極的に取り組んできました。さらに米国には「基礎研究にこそビジネスチャンスは存在する」と考える風潮があります。たとえば、ヒトゲノム計画に大きな影響を与えたクレイグ・ヴェンター氏はその代表格。彼は「ブルー・オーシャンは基礎研究領域にある」という考えを持っており、現在でも「合成生物」研究に資金を集めて相当の力を入れています。

村川 逆に最近の日本では、公的な研究資金の投入先が「実用化が間近な応用研究」に片寄りがちな印象があります。本来は、基礎研究は公的資金で支え、逆に応用研究は民間から資金調達ができるような構造が必要だと思うのですが。

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村川 泰裕 氏(国立研究開発法人理化学研究所生命医科学研究センター)

辻丸 さらに付け加えると、公的資金による研究が仮に失敗しても、その結果だけで責任を取らされることがない制度も必要ですね。税金を原資とする以上、資金は大切に運用されるべきですが「税金だから失敗は許さない」という考え方は誤りです。過去に成功したプロジェクトをみると、優れた研究者の上には理解ある上司がいて、彼らが外部の批判から研究者を守り、一方で新たな研究はどんどん挑戦させる。そういう体制が必要ですね。

―― 将来のビジョンをもった研究者と、その彼らをまとめあげる人たちの存在が新たな領域を開拓していくわけですね。

辻丸 その意味でも、ヒトゲノム計画におけるジェームズ・ワトソン博士の功績は非常に大きいといえます。あれだけの巨大プロジェクトをまとめ、ホワイトハウスを説得し、議会にも巨額の予算を承認させた。もともと彼は研究者ですが、プロジェクト・マネージャーの才能にも恵まれた人物であったといえます。

起業を考えるなら「ゼロイチ」オンリーワンの技術を目指せ

―― 現在では日本でも産学連携によるイノベーションの創成に取り組んでいます。現状と今後の課題をお聞かせ下さい。

辻丸 ライフサイエンスにおけるイノベーションのタネは、アカデミアから誕生してきました。IT産業とは異なり、決してガレージオフィスから誕生することはありません。したがって、アカデミアから生まれた成果をいかに産業に結び付けるかという部分が非常に重要になります。米国は40~50年にもわたる試行錯誤を繰り返しながら、現在の形にたどり着きました。日本は後発なのだから、米国よりも斬新な発想が必要かもしれません。

村川 アカデミアの基礎研究者と起業家との交流・連携は非常に重要です。しかし、両者の間の隔たりはとても大きいように思います。幅広い人脈作りをサポートする仕組みが必要ですね。

辻丸 ビジネスという視点でいえば、目指す技術はあくまで「ゼロイチ」。今ある技術よりも少しの利点があるくらいでは、事業化した後に苦労することになります。逆にいえば、かつて米国に巨額の利益をもたらしたDNA増幅技術のように、必要な技術が世界に1つしかなければ、どんなに高額な特許でも使わざるを得ないのです。

村川 基礎研究についていえば、私たちはまだ「生老病死」という生命の基本原理すら理解できていません。ヒトの遺伝子は約2万個とされますが、実は今もなお新たな遺伝子が発見されています。ヒトゲノム計画を通じて解明された膨大な塩基配列の中には、まだ発見されていない未知の情報や暗号が大量に埋もれています。ヒトの寿命の限界は何歳なのか。ヒトが病気から完全に開放される日は来るのか。まだ発見されていないゲノム情報の解明を通じて、世界に1つしかないような発見を目指しています。

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tsujimaru.png辻丸 光一郎 氏  辻丸国際特許事務所/LINK-Jサポーター
工学博士。広島大学生物生産学部生物生産学科卒業。卒業後は太陽日酸株式会社で基礎研究員を務める。ヒトゲノム計画を知ると「知財の専門家」である弁理士を目指し、特許事務所に入所して経験と実績を積む。1999年に弁理士資格を取得し、2005年に辻丸国際特許事務所を開設した。科学全般に対応するが、特に・医療・医薬品・バイオ・AI・IoT等の先端分野を専門にする。

murakawa.png 村川 泰裕 氏 国立研究開発法人理化学研究所生命医科学研究センター
医学博士。京都大学医学部医学科卒業。学生時代よりバイオテクノロジーに関心を持つ。京都大学総長賞受賞。卒業後は京都大学医学部附属病院血液・腫瘍内科に進む。2010年にはベルリン自由大学大学院/マックスデルブリュック分子医学研究所に留学。2016年より理化学研究所にて研究室を主宰。現在、理化学研究所生命医科学研究センターチームリーダーおよびミラノIFOMがん研究所グループリーダーに就任しており、ゲノム医学を専門にする。

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