【要旨】
株式会社東レリサーチセンター(所在地:東京都中央区日本橋本町一丁目7番2号、社長:吉川正信、以下、「TRC」)は、国立大学法人東京大学物性研究所(所在地:千葉県柏市柏の葉五丁目1番地5、所長:廣井善二、以下、「東大物性研」)の原田慈久教授の研究チームと、生体に優しい材料(生体的適合性材料) であるポリビニルピロリドン※1)(以下、「PVP」)と水分子との結びつき(水素結合※2))について詳細に調べました。
材料中の水分子は単一の状態ではなく、材料との結びつき方や、水分子同士の繋がり方によって、異なる性質を持つ水分子が存在することが分かっています。TRCでは、これまで水が関わる材料について、様々な方法を用いて材料中の水分子の状態を調べてきました(後述の表参照)。このような水分子が、他の材料、または水分子同士で結びついた時の性質(融点や粘度、密度など)を最も反映している水素結合について知ることは特に重要です。しかし、その結合はピコ秒(1兆分の1秒)オーダーという非常に短い時間で解離・再結合を繰り返しているため、水分子の水素結合を直接観測することはできませんでした。今回、東大物性研原田研究室が開発した高いエネルギー分解能を持つ軟X線発光分光※3)を新たに用い、材料中の水分子がどのように水素結合しているかを詳細に解析することができました。
この研究の詳細は、2024年4月25日に公開されたJournal of Molecular Liquids誌に掲載されています。
【背景】
水は、生活に欠かせず、水が関わる材料は身の回りにあふれています。材料中の水分子は、材料との結びつきの強さによって、自由水、不凍水、中間水の3つに分類されます。自由水は、材料との結びつきがほとんどなく、普通の水と同じように常圧において0℃で凍る水です。不凍水は、材料との結びつきが強く、低温でも凍りません。これらの水に対して、中間水は、材料との結びつきが不凍水と自由水の中間の性質で、低温にした際に0℃よりも低い温度で凍る性質を持っています。材料の性能には、これらの水分子が大きく寄与しているため、水分子の状態を調べることは材料開発で重要な知見となります。
医療材料や医薬品などで用いられる生体的適合性材料には、中間水が例外なく含まれています。タンパク質などの生体分子も同じく中間水を持っています。この中間水が材料と生体分子との緩衝材となり、生体分子が材料へ付着することを防いで生体適合性を発現するという「中間水コンセプト」が九州大学の田中賢教授によって提唱されています[1]。
今回、生体適合性材料であるポリビニルピロリドン(PVP)を対象として、材料中の自由水、不凍水、中間水の水素結合の状態を解析しました。
【成果概要】
TRCと東大物性研は、大型放射光施設SPring-8 BL07LSU※4)での軟X線発光分光の測定を行いました。その結果、不凍水や中間水は、それぞれ異なる状態でPVPや水分子と結びついていることが分かりました。具体的には、不凍水は、PVPから強く引き付けられることで歪んだ水素結合を形成 しています(図1)。一方で、中間水は不凍水とは全く異なり、比較的自由水に近い繋がり方をしていることが分かりました。このように、生体適合性発現に寄与する中間水や、中間水が形成されるための足場となっている不凍水について、その振る舞いを決める水素結合を明らかにしました。
図1: PVPに含まれる水分子のイメージ図。中間水が形成されるための足場となっている不凍水は、PVPから強く引き付けられることで歪んだ水素結合を形成する。
【今後の展開】
今回の研究成果は、医療材料や医薬品の研究・技術開発だけでなく、化学反応や触媒反応など、水が重要な役割を果たす場面での水分子の働きの理解への貢献も期待できます。また、インクや化粧品、燃料電池など、水が関わる多くの材料の開発に役立つと考えられます。例えば、汚れた水からきれいな水を作る水処理膜は、膜中での水の振る舞いがその性能に寄与しています。そのため、水処理膜中の水の状態を詳細に調べることは、高性能な水処理膜の開発に繋がり、ひいては世界中で深刻化する水不足や水質汚濁といった社会的課題の解決への貢献が期待されます。
TRCは今後も、水が関わる様々な分野で、水に着目した分析を通じて研究・技術開発に貢献してまいります。
【水に着目した主な分析手法】
手法名 |
説明 |
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示差走査熱量測定法 (Differential Scanning Calorimetry; DSC) |
温度を所定のプログラムに従って変化させながら、試料からの熱の出入りを調べる方法。水が凍結したり融解したりする過程から、水分子の状態や量を知ることができる。 |
核磁気共鳴法 (Nuclear Magnetic Resonance;NMR) |
強い磁場の中に試料を置き、分子のスピンの向きを揃えてから、パルス状のラジオ波を照射して分子を共鳴させ、元の安定状態に戻る際に発生する信号を解析する方法。水分子の運動性を調べることができる。 |
フーリエ変換赤外分光法(Fourier Transform Infrared Spectroscopy;FT-IR) |
物質に赤外線を照射し、分子の振動によって吸収された赤外線を調べる方法。物質の構造を解析することができる。特に、水分子では、振動の様子から水素結合の強さを調べることができる。 |
中性子散乱法 |
試料に中性子線を照射して、中性子線がどのように散乱されるかを調べる方法。中性子は水素でもよく散乱されるため、水分子を調べるのに適している。水分子の水和構造や運動性を調べることができる。 |
【用語説明】
※1)ポリビニルピロリドン(PVP):
優れた生体適合性を持つことから、錠剤の成形や医薬品の接着剤など、医療やバイオテクノロジーの分野でよく使われる物質。化学的には、C6H9ONという構造を繰り返し持つ物質で、カルボニル基(C=O)という部分が含まれている。
※2)水素結合:
水素原子(電荷が弱い陽性)と酸素、窒素などの原子(電荷が陰性)の間に作られる弱い結合。
※3)軟X線発光分光:
エネルギーが2 keV以下のX線(軟X線)を使って物質の化学結合を調べる手法。軟X線発光分光は、物質が軟X線を吸収した後に放出される軟X線のエネルギーを分析する。これにより、触媒や電池などの研究に役立てられている。また、軟X線の吸収と発光は水素結合が解離・再結合するピコ秒よりもはるかに短い時間で起こるため、瞬間的に形成される水素結合の状態を調べることができる。
※4)SPring-8 BL07LSUビームライン:
SPring-8 は兵庫県にある施設で、世界最高輝度の放射光を生み出す。この放射光を用いて、物質科学や生命科学などの幅広い研究が行われている。BL07LSUビームラインは、この施設の一部で、軟X線を使った研究が行われていた。わずかな水素結合の違いも捉えることのできる高性能なビームラインで、現在は、東北大学の青葉山新キャンパス内に移設され、再び研究に利用されている。
【参考文献】
[1] M. Tanaka, T. Hayashi, S. Morita, The roles of water molecules at the biointerface of medical polymers, Polym. J. 45 (2013) 701-710. DOI: https://doi.org/10.1038/pj.2012.229.
【掲載論文】
Journal of Molecular Liquids 403 (2024) 124822.
DOI: https://doi.org/10.1016/j.molliq.2024.124822.
公表日: 2024年4月25日(オンライン公開)