第1回のコラムでは、江戸時代の初めから日本橋本町には薬種商が集まり、「くすりの街」となっていったことをご紹介しました。
今回は、そんな日本橋本町の明治時代以降の様子を、地図をまじえながらご紹介しましょう。
洋薬の広がりと医療制度の近代化~明治時代
明治時代においても日本橋本町には薬種商が集まっていましたが、文明開化の波は、そこに少しだけ変化をもたらしました。
明治15年(1882年)頃になると、西洋の薬「洋薬」を取り扱う者が増えてきたのです。
背景には、明治7年(1874年)に発布された日本初の薬事制度「医制」を皮切りに、医薬品に関するさまざまな制度が整備されたことがあります。
日本橋本町では、明治17年(1884年)、62名が集まって「東京薬種問屋組合」を設立しました。その後、「重要輸出品同業組合法」が公布されたことを受けて、「東京薬種貿易商同業組合」となります。明治33年(1900年)のことです。
この時の設立同意者は80名。中野進著の『日本橋本町』(東京薬貿協会出版)によれば、東京の薬種問屋の実に3分の2以上が加入したと推定されています。東京薬事協会は、「これは東京を代表する薬種問屋の組織であるといえ、日本橋本町の組合と見て差し支えないだろう」と述べています。
当時の日本橋本町の地図を見てみましょう。明治時代の東京は、現在と区割が異なっていました。「日本橋本町」とは、常盤橋を基点に、日本銀行の前の通りに沿ったエリアを指しており、日本銀行から東に向かって本町一丁目~四丁目が並んでいました。
上の地図は、明治17年(1884年)頃の薬種問屋の人名と所在地を地図にしたものです(常盤橋は地図の右側外に位置する)。日本橋本町に薬種問屋が集積していることが一目で分かります。
明治30年代(1897年代)には、隣接の町を含めたいわゆる「本町薬品市場」には60件前後の店舗が散在し、その過半数が、ここ日本橋本町三丁目と四丁目に集中していたことが分かっています。
国産医薬品の活発化~大正時代
時代が大正へと移ると、大正3年(1914年)に第一次世界大戦が勃発します。そのため、ヨーロッパ、特にドイツの薬品が輸入できなくなり、医薬品不足や価格の高騰が起きました。そのため、官民合同の製薬事業が立ち上げられるなど、国内の製薬業がにわかに活発化することとなりました。こうして大正中期には国産薬品が増えましたが、大戦が終結すると外国品に依存する状態に戻り、薬品の主流は引き続き輸入洋薬が占めました。
日本橋本町には、変わらず薬種問屋が集積していました。北園孝吉著『大正、日本橋本町』(青蛙房発行)に掲載された、北園氏の記憶を元に描かれた大正10年(1921年)頃の地図によれば、本町三丁目から四丁目あたりに「この通り両側に薬種店多し」という記述があります。
当時の日本橋本町では、「鳥居」「田辺元」「小西」という3つの薬種問屋がスクラムを組んで、相場をリードしていました。また本町問屋は、薬種問屋が同じように集まる大阪の道修町のような、大問屋・大問屋代理店・市内小売の問屋・セリ屋などの明確な区別がなく、元卸と中小問屋が一体となって市場を形成していました。
大正12年(1923年)9月1日、そんな日本橋本町をゆるがす出来事が起きます。関東大震災です。薬種問屋も壊滅的被害をこうむり、141名となっていた同業組合のうち、被災をまぬかれたのはたったの13名。界隈で焼け残ったのは薬種問屋「中滝」の倉庫程度で、すべて灰燼に帰してしまいました。
それでも同業組合は奮起し、緊急の対策として、大阪市場から共同で医薬品を購入する計画をたてます。同年9月26日には代表が大阪薬業組合員と会見し、救急薬品購入を決定。1ヵ月後には薬品が芝浦へと届き、10月末には組合活動を開始したのです。
昭和初期のくすりと日本橋本町
この未曾有の災害後、政府は「帝都復興事業」を計画、実行します。こうして、昭和7年(1932年)、「大東京市」が誕生しました。
大東京市誕生にあたっては、大幅な区画の見直しがおこなわれました。本町の区割も変更され、江戸橋を基点に南北へと本町一丁目から四丁目が並ぶ、現在とほぼ同じ区割りとなりました。
左:右の地図の本町二丁目と三丁目を拡大したもの 右:昭和七年の大東京市日本橋区町名地番の地図(クリックするとPDFが開きます)
大東京市が誕生した年の地図を見てみましょう。地図上部中央には日本銀行があります。日本橋本町は、地図下部左手の江戸橋から、地図右手側に伸びる大通りに沿って、一丁目~四丁目と続いています。
よく見ると、本町二丁目から三丁目付近に、東京薬種貿易商同業組合の組合員であることを意味する「薬貿」という名称のついた屋号が集中しています。区割りが大きく変わっても、薬種問屋は本町に集まったのです。
この本町の区画整理については、本町の薬業界人であった十七代・松本市左衛門氏が、「薬種問屋といえば本町であり、薬業の中心が本町となるよう境界線を引いてほしい」と主張したという話も伝えられており、薬種問屋が「本町」にこだわったことがよく分かります。
日本橋本町は、江戸から明治・大正・昭和と時代が移り変わっても、ずっと変わらず「くすりの街」であり続けてきたのです。
続く >> 第4回 日本橋本町はなぜ「くすりの街」になったのか~サクラグローバルホールディングの事例にみる薬種店の歩み~
参考文献
・中野進著『日本橋本町』(東京薬貿協会1974年発行)
・東京薬事協会 会報(1989年9月10日発行)
・北園孝吉著『大正、日本橋本町』(青蛙房発行)