この投稿記事は、LINK-J特別会員様向けに発行しているニュースレターvol.15のインタビュー記事を掲載しております。
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レセプト、電子カルテ、DPC、調剤データなど、診療の現場で発生するデジタルデータ。これら膨大な医療情報をデータ解析することで、新しい治療法の研究、健康寿命の延伸、医療サービスの質の向上、医療費の抑制などに役立てることが期待されています。しかし日本では、医療情報の利活用がなかなか進んでいないのが現状です。そこで問題点と課題解決の糸口を探るため、東京大学医科学研究所教授の中井氏、医療情報サービス会社ブルーブックスの志茂氏、ボストン コンサルティング グループ(BCG)の泉氏と西田氏の4人にオンラインでお集まりいただき、座談会を開催しました。
利活用が進む 医療やゲノムの情報
西田 LINK-Jサポーターで、本日ファシリテーターを務めます西田です。本日は「医療情報の利活用の課題と展望」について、皆さまと議論を進めてまいります。私はBCGでヘルスケア領域を担当していますが、医療情報やデータの活用は今、どのようなトピックの議論でも必ず触れられるテーマです。ではまず、お一人ずつ医療情報との関わりをお話しください。
泉 私はBCGのデータサイエンスの専門組織、GAMMAに所属し、AIやデジタルを専門としています。BCGでは業界を担当するコンサルタントと私たちデジタル部門が密接に連携していて、西田とはリアルワールドデータ(RWD)を使った新しい価値創造を目指して協働しています。今回の座談会には、日本メディカルAI学会がきっかけで知り合った中井先生と志茂社長をお誘いしました。
中井 私は、理学部の出身で、2003年から東京大学医科学研究所ヒトゲノム解析センターの教授として、ヒトゲノム解析やその方法論の開発などに携わっています。専門はコンピュータ解析で、私自身は医療情報に直接関わっているわけではありませんが、医療情報とゲノム解析を組み合わせて生活習慣病の原因を探ろうとする沖縄県の「久米島デジタルヘルスプロジェクト」に感銘を受け、同プロジェクトに参画している志茂社長に私の経験や知見をお伝えしている次第です。
志茂 株式会社ブルーブックス社長の志茂です。当社は沖縄で健康・医療情報の収集・活用サービスを行い、医療現場の効率化、医療の質の向上、患者さんの健康づくりへの貢献を目指しています。今、中井先生からご紹介いただいた「久米島デジタルヘルスプロジェクト」は、医療データを活用し生活習慣病を改善・予防するための実証事業なのですが、島民のデータを分析すると幼少期から腎機能の数値が思わしくない人が多いことがわかり、遺伝的な原因もあるのでは?との仮説からゲノム研究も行われることになりました。
西田 それぞれ異なる立場から医療情報やゲノム情報に携わっているメンバーで、議論を進めていきます。それでは最初に、これまでのゲノム情報や医療情報の発展の経緯やデータ利活用の現状をお聞かせいただけますか?
中井 ゲノム情報は、ヒトゲノムプロジェクトが完了した2003年以降、次世代シーケンサーの進展や大幅なコスト低減に伴い、膨大な情報の蓄積が進んでいます。近年はゲノム情報をもとに、付加的なエピゲノムの情報やプロテオーム、メタボロームなどのデータを組み合わせ、総合的に生命情報を理解するマルチオミックスの研究が盛んになっているところです。
志茂 当社の例で医療情報収集の経緯をお話ししますと、我々は2011年から沖縄でビジネスを展開しています。沖縄は、海に囲まれているため県外医療機関の受診は限定的で、県民の定住性も高いなど、密度の高いデータを継続的に蓄積していく上で好条件が揃っています。加えて、長寿県として知られていた沖縄が近年は生活習慣病のせいで短命化していることに自治体や地元医師会が危機感を持っており、医療情報の活用に前向きな姿勢がありました。
こうした背景から我々は医療機関や自治体とのシステム連携を実現させ、発生した医療データを自動で取り込むシステムを構築しました。現在は、氏名・生年月日・住所・性別から構成されるユニークIDを100万ID以上蓄積し、20年前までさかのぼる500万件の医療データ、570万件の画像データを保有しています。一部ゲノムデータの収集も行っています。
データ利活用の状況としては、「病院間での患者さんデータの共有」「患者さん本人による自身の医療・健康データの閲覧・記録」「アカデミアや企業の研究利用」が3本柱となっています。売上構成で見ると研究利用が主軸で、個々人の診療履歴を20年にさかのぼって追跡可能だという点が評価されています。
情報を組み合わせることで 個々人に最適な医療が実現する
西田 今後さらに医療情報やゲノム情報の利活用が進むと、医療やヘルスケアにどのような影響を与えるのでしょうか?
中井 ブルーブックスさんが手掛けているように、RWDにゲノム情報が加わるとゲノム上の特徴と病気の関係性を統計的に調べる「GWAS(ジーワス、ゲノムワイド関連研究)」が行えるようになります。病気は単一遺伝子が原因ということは稀で、複数の遺伝子や環境要因が複雑に絡み合う多因子性疾患がほとんどですから、発症のメカニズム解明や予防、治療法開発につながるGWASには期待が寄せられ、多数のボランティアにご協力いただく、ゲノムの大規模なコホート研究が近年国内外で盛んに行われています。こうした研究をもとに「個別化医療」あるいは「精密医療」などと呼ばれる個々の患者さんのゲノム情報に基づく医療も発展しています。例えば特定のレセプターが変異を起こしている患者さんだけに効くがん治療の分子標的薬などは、その一例ですね。
「個別化医療」や「精密医療」は発症後の治療に関する話ですが、遺伝的素因や日頃の健康情報などから将来の発症を予測し、発症する前に適切な治療的介入を行う「先制医療」も発展してきています。
西田 データ解析により発症前に病気の予測をし、適切な介入により病気を未然に防ぐことができれば、ビジネスの観点でのインパクトは大きなものになります。この点で医療情報利活用の成果を上げているのが、アメリカですね。アメリカでは個人の医療費負担が大きいため、保険者がデータアナリティクスを活用して、会員データの中から心不全のような重篤で費用負担も大きい病気にかかる人の共通項をセグメントし、どのタイミングでの介入が効果的か分析することで、重症化を防ぎ、数百億円分もの医療コストを最適化しています。
志茂 別の視点ですが、私はこの先、企業のRWD活用が進めば、人々に行動変容が見られるようになるのではと期待しています。現状ではいくら健保組合などが「健康のために」と訴えても、1日たった5分の習慣でさえ、付け足すことも減らすことも非常に困難です。ところがスーパーで今晩のメニューを考えているまさにその瞬間、自分の健康管理に役立つ情報として「これを食べては?」とレコメンドが提示されれば、それを選ぶ可能性が高い。消費行動=健康行動になるのです。食品会社や化粧品会社などに医療情報を活用してもらうことが重要だと思っています。
日本で医療情報の利活用が進まない理由とは
西田 医療情報の利活用が進めば、いろいろな展望が開けることが皆さまのお話からわかりました。しかし一方で日本ではデータ利活用がなかなか進まないという課題があります。何が障壁になっているのでしょう?
泉 データを扱う側の立場からすると、まずデータが個別の医療機関や健康保険組合、国民保険を扱う市町村などに分散していて、活用しづらい状況があります。
志茂 那覇市医師会は、自分たちが得た医療データを有効活用して県民・市民に返したいという想いがあるため当社に協力くださっていますが、これは例外的な対応で、医療情報を他社に渡すことに抵抗を感じる医療機関や医師会がかなりの割合で存在しているのも事実です。我々も当初3年かけて理解を得てきた経緯があり、また情報漏洩事故をこれまで10年間起こさないことで、信用を高めてきました。
泉 利活用したくても目的に適うデータが揃っていない、あるいは第三者機関に情報を提供するのは目的外利用になってしまうといったケースもあります。ですからまず社会に還元したいデータ活用のテーマを検討し、ビジネススキームを構築し、その目的に適うRWDを蓄積できるプラットフォームを作る必要があります。また、どのような同意を取れば二次利用が可能なのか制度上グレーな部分もありますから、制度の整備も必要です。
志茂 その通りですね。企業からの医療情報の利用ニーズは高いのですが、現状では被験者に同意を取れるのはアカデミアの研究目的に限られ、直接企業にデータを提供できる環境にはありません。制度改正や規制緩和など行政のバックアップが得られると、より柔軟な利活用が進むと思います。
西田 アメリカで保険者がリードしてRWDを活用しているのは、会員が健康であれば保険料をそのまま利益にできるというインセンティブが強く働いているからです。もちろん会員は健康でいられますから、お互いにwin-win。ところが国民皆保険で患者自身の医療費負担が少ない日本では、医療コストが国の財政を圧迫しているのにも関わらずなかなかインセンティブが働きません。RWD活用の財政的な意義が国内でもっと認識されると、状況が変わるのではないでしょうか。
泉 もう一つ、医療データを扱える人材が圧倒的に不足していることも課題です。学界では中井先生をはじめ多くの研究者がゲノム情報を扱い研究成果を上げているのに比べ、医療業界周辺ではまだ、医療情報を使える人材が非常に少ない。医療業界はこれまで医療統計など特殊な解析方法に特化してきましたが、今はAI、ビッグデータなど新しい技術がどんどん入ってきているので、それを使って価値をつくっていかなければ、諸外国との競争に勝てないと考えています。
西田 医療データを扱える人材とは、具体的にどのようなスキルを持った人材を言うのでしょう?
泉 要件としては医学・薬学、医療制度、倫理、データサイエンスの知識があり、データを加工するエンジニアリングの経験があり、さらにそれを価値に変え、実装に結びつけられるビジネススキルがあることですね。でもその一つひとつが奥の深い領域ですから、すべての技能を備えている人はいないでしょう。実際には、自分の専門性に加えて他領域にも理解のある人材を集め、多業種連携チームを組むことになります。
データを自由に使える環境づくりとデータ精度の向上がカギに
西田 ここまで挙げられた課題の解決に向けて、皆さまのお考えや今後実現したいことをお聞かせください。
志茂 プラットフォーム整備の観点で、当社は個人情報を統計によって匿名加工する基盤を開発中です。研究者に研究テーマを定義していただき、その演算結果のみを出すもので、「匿名加工すれば個人を追跡することはできないため、個人情報の提供には当たらない」と法律でも解釈されています。研究者が使いたいデータを指定できるよう、データのライブラリー整備も計画しています。
泉 私はデータサイエンティストの育成に関わっておりますので、価値創出のテーマを自分で考え、最新技術をうまくマッチングさせて医療情報を活用できる人材を育てたいですね。AI人材を多数輩出しているインキュベーション施設で学生に尋ねたところ、半数以上がヘルスケア領域でAIに取り組みたいと希望していました。ヘルスケアは社会や個人に価値を還元できる領域ですよね。ところが、彼らが活躍できるフィールドやデータが整っていない。ですから、人材育成とフィールド作りを同時並行で進めなければいけません。
西田 人材などの基盤が重要だと思いますが、データ分析が進んでいるアカデミアの人材をビジネス側で活用するなど連携強化はできないでしょうか?
中井 データを自由な発想、新しい目で解析することが大事で、例えば医療とはまったく異なるバックグラウンドを持つ学生が医療データを自由に解析することができれば、独創的な研究の芽が生まれるかもしれません。そのようなシーズをアカデミアと企業で共同研究することも考えられます。ただ医療データの取り扱いは情報倫理が厳しいので、その点は十分に注意しなければなりませんが。
泉 中井先生がおっしゃる通りRWDをビジネスの中で実装させるには、データを自由な発想で使える環境づくりが求められますね。それと同時にデータの精度向上の二軸で取り組む必要があります。自由に使える環境ということでは、NDB(レセプト情報・特定健診等情報データベース)オンサイトリサーチセンターを発展させたような形や、志茂社長が取り組んでいる匿名化、データジェネレーションなどが考えられます。精度面では、倫理、セキュリテイが担保されたデータ環境を整備しなければなりません。そして、国民がRWDのメリットを享受できるよう、身近な製品やサービスに落とし込むことが必須です。
志茂 本人の利便性向上という視点を織り交ぜることが、データの利活用推進には欠かせません。例えば当社のデータを使えばフリマアプリで匿名での商品売買が容易になるなど、医療・ヘルスケア分野以外での活用の可能性も広がっています。このように多彩な活用法があること、また行動変容につながる可能性があることを、多くの方にご理解いただきたいですね。
中井 医療情報の分析は欧米で先行していますが、欧米の研究成果がそのまま日本人に当てはまるとは限りませんので、やはり日本は独自に研究を行う必要があります。ブルーブックスさんの事業などが成功体験として認識され、医療情報利活用に弾みがつくことを願っています。
泉 LINK-Jは最近、大阪道修町に「ライフサイエンスハブウエスト」を開設されたとのこと。本日の座談会で浮き彫りになった課題の解決に向けて、今後はLINK-Jが、東西2拠点の人的ネットワーク、企業間ネットワーク、産官学ネットワークを通じて、集合知を作る場になることを期待します。
西田 私からは医療経済性の話をさせていただきましたが、それを実現するために、ケイパビリティ(組織能力)を獲得するという面でも、行動変容を起こすという面でも、複数のプレイヤーが連携することが重要だと改めて感じました。本日は示唆深いご議論をありがとうございました。
京都大学理学部卒業。京都大学博士号取得。京都大学化学研究所助手、岡崎国立共同研究機構基礎生物学研究所助手、大阪大学細胞生体工学センター助教授などを経て、2003年より現職。コンピュータを使ったゲノム情報や遺伝子産物の機能解析を行うバイオインフォマティクスの研究を行っている。再生医療、免疫学、発生生物学などの分野における最先端の研究者との共同研究も展開。
駒澤大学文学部社会学科卒業。矢野経済研究所(健康・スポーツ担当)、積水化学工業株式会社(センサー技術を応用したホームヘルス担当)、セゾングループなどを経て、2002年3月に株式会社ブルーブックスを設立。沖縄県内の自治体や医師会と連携し、約100万人の医療データベースを構築するほか、匿名加工した健康・医療情報を研究機関やアカデミアが活用できるサービスを開発している。
筑波大学経営学修士(MBA)。IBM、リクルート、デトロイトトーマツを経て、2019年、BCGに入社。AI、データサイエンス、デジタルを活用した企業のトランスフォーメーションを支援。また医療データの業界標準ルール形成や、地域・大学・病院・民間企業を巻き込んだ新ビジネススキームの形成にも取り組む。あわせて、データ・デジタル人材の獲得・育成も手掛け、京都大学大学院では特命准教授として医療データサイエンティスト講座を立ち上げ、講座を受け持つ。
東京工業大学工学部を卒業後、日産自動車株式会社を経て2005年にBCGに入社。ヘルスケアグループ、および組織・人材グループのコアメンバー。主として製薬企業や医療機器メーカーに対して、グローバル戦略の策定・実行支援、組織再編、システム統合、デジタルトランスフォーメーション、研究開発の生産性向上、生産・オペレーション改革、営業・マーケティング戦略、デジタルを活用した新規ビジネス構築などの支援をしている。